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京都旅行、レオナルド・ダ・ビンチ展:芸術についての一考

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僕は普段、芸術というものには、とんと興味がない。機能さえ良ければ良い。外見はどうでも良い。

と考えているが、昨年の京都旅行や東京都美術館のレオナルド・ダ・ビンチ展へ行き、また一つ考えたことがあるので、ここに留めておく。

京都旅行では、寺院を回り、様々な建築物・絵画・仏像やら何やらを見学した。もちろん、それらは素晴らしいものだったけれど、気になったのは、

という事だ。

また、東京都美術館のレオナルド・ダ・ビンチ展では、ダ・ビンチの手稿や絵画、同時代の美術品を見学した。休日に行ったので、人が多すぎて、美術品より人の山を観察していた・・・ということはさておき、不満に思ったのは、

と、やたら禁止事項が多い事。


海外の美術館では、写真撮影は可能の場所が多い(フラッシュは禁止)。また、美術館によっては、美術品の写生が出来るところもある。

カメラのフラッシュを炊くと、絵画が劣化してしまうから、フラッシュ禁止なのは分かる。また、フラッシュにより、鑑賞の妨げにもなる。

一方日本では、写真撮影や写生自体が禁止されていることが多い。

混雑時に写真を撮ると、さらに混雑が悪化してしまうかもしれない。著作権との絡みもあるかもしれない(そもそも、私的使用が目的なら問題ないと思うけど)。
そういった理由は理解出来ないことはないが、一律禁止というのは、あまりに厳しい制限じゃないだろうか?

美術品の価値

そもそも、美術品の価値というのは、鑑賞されることで初めて生まれるものだ。

こういったことで、美術品としての価値が、十全に発揮される。美術品として生きる事が出来る。

倉庫に保存されているだけでは、誰の目にもとまらない。上記のサイクルが、まったく動き出さない。
いかに素晴らしく、いかに価値がある美術品でも、誰の目にもさらされず、倉庫に眠っている状態では、死んだも同然だ。


美術品を前に、写生をする。模倣をする。新しい発見が生まれる。それを超えようと、努力する。

美術品の写真を撮る。数年後、写真を見返す。あらためて美術品の良さを理解する。美術品について、より詳しく調べる。写真をネットにアップする。美術品の素晴らしさが、より多くの人に理解される。

これが、美術品の価値ではないだろうか。

美術品の消耗

もちろん、美術品を保管していくこと、最良の状態を長期間維持していくことは、とても重要だ。

しかし、何事も始まりがあれば終わりがある。
人の人生しかり、美術品しかり。国家にも、文明にも、人類にも(きっと)終わりがある。

美術品が生きるということは、多くの人の目にとまり、心に刻まれ、人々に消費されるということだ。時の試練(test of time)を経て、何百年後にはボロボロになり、消耗し、役目が終わる。人類が続いていれば、最終的には教科書の1行として残るかもしれない。

それが当然の成り行きだし、それでいいんじゃないかと思う。雨風に打たれて朽ち果てるのは良くないが、人の目にさらされて朽ち果てていくのだったら、それでいい。頑丈なタイムカプセルを作って、永久保存をしても、人類が滅亡してしまっていたら、何も価値はない。

補記

と、ここまで書いてところで、一つ気がついた。

寺院は、所有している仏像・絵画・襖絵を、大切に保管している。美術館も、絵画・彫刻・その他の美術品を、大切に保管している。美術品を“大切にしている”ことは間違いないが、その意味はおそらく二つある。一つは、“できるだけ今の状態を維持して、後世に伝えること”と、もう一つは、“できるだけ美術品としての価値を広めること”だ。

日本の寺院・美術館は、“できるだけ美術品としての価値を広めること”よりも、“できるだけ今の状態を維持して、後世に伝えること”に重きを置いているように思える。そのため、レプリカを置いたり、普段は非公開にしたりしているのだろう。

バランスの問題とも言えるが、もう少し、“できるだけ美術品としての価値を広めること”を重視してもらいたいものだ。
美術品は、人々の心の中で生きるのだから。

 

追記(2014.5.22)

メトロポリタン美術館は、約40万点の作品をオンラインで公開した。
作品の概要はもちろん、一部の作品は高精細な画像もダウンロードできる。

美術品としての価値を高め、広く世界に知らしめることが出来る、素晴らしい試みだと思う。日本の美術館・寺院も見習って欲しい。爪の垢を煎じて飲め、とはこの事だ。