「増税の前に、無駄の削減が先だ。」
という声をよく聞く。
一見正論に聞こえるが、問題は、“どこまで”という期限が示されていない点だ。
「原発を再稼働させるのは、安全性が確認されてから。」
↓
今までの知見を踏まえ、新たな安全基準の策定
↓
基準に沿うよう、設備を改善
↓
まだ原発の危険性は残る。安全性は不十分。最初に戻る。
「増税の前に、無駄の削減が先だ。」
↓
無駄な公共事業費、その他支出を減らす
↓
まだ財政に無駄がある。無駄削減は不十分。最初に戻る。
という具合に、いつまでも終わることがない、無限の論理だ。
原因は、原発の安全性・財政の無駄削減共に、どこまで追求してもきりがない問題であること、そしてその問題に期限を設けていないことにある。
例えば、原発の安全性というのは、(他の安全性と同じく)0か1かで決められるものではない。どんな安全策を講じた所で、絶対にメルトダウンしない、“絶対に安全”というのは存在しない。危険性を0に限りなく近づけることはできるが、0に達することはない。これは、他の安全性にも同様のことが言える。この意味で、“安全かどうか”という言葉よりも、“どのくらい安全か”という言葉を使うべきだ。
そして、これらの際限のない問題を扱うときは、“どこまで”という期限を設ける必要がある。例えば、“原発を再稼働させるのは、(最新の知見を踏まえて)1年間でメルトダウンする確率が、1年間で直径10kmの隕石が地球に衝突する確率を下回ったら”、というように。この期限が適切かどうかは置いておいて、このような期限がないと、主張の意味が乏しくなってしまう。「原発を再稼働させるのは、安全性が確認されてから。」と主張しても、単に「原発の再稼働に反対。」程度の意味しか無くなってしまう。
まとめ
「原発を再稼働させるのは、安全性が確認されてから。」
「増税の前に、無駄の削減が先だ。」
という主張は、一見正論に聞こえる。
しかし、原発の安全性と財政の無駄削減には、限りがない。そして、これらの主張は“どこまで”という期限が示されていないため、いつまでも終わることはない。
そのため、これらの主張は、
「原発の再稼働に反対。」
「増税に反対。」
という意味以上のものではない。