「どうして?」
「何故?」
僕は子供の頃、こんな質問ばかりして、親を困らせていたらしい。まぁ、今もそんなに変わらないけど。
物事には、必ず原因と結果がある。或いは、必ずあるだろうと考えられている。
例えば、空は青い。空が青い理由はなんだろう?
太陽の光は、赤・青・黄・緑など、色々な色の光が混ざっている。その光が、眼の網膜に入ると、光として感知される。太陽の光が、空(空気)で散乱する。青色の光が散乱しやすいから、青色の光が目に入って、空が青く見える。
では、何故青色が散乱しやすいのだろう?
空気の中の光の散乱は、レイリー散乱と呼ばれ、以下の式で散乱係数ksが表される。
nは粒子数、dは粒子径、mは反射係数、λは波長(Wikipediaレイリー散乱より)
散乱係数と空気の厚さの関係から、青色が最も目に届きやすい。だから、空が青く見える。
では、なぜレイリー散乱は、上記の式になるのだろう?
レイリー散乱の式の導出については、とても煩雑になるため書けないが、例え導出したところで全ての謎が氷解するわけではない。
何故マクスウェルの方程式が成り立つのか?空気(O2, N2)の粒子径はどうしてその値なのか?そもそも分子・原子・電磁波とは何だろう?むしろ、木の枝の如く、次々と新しい謎が出てくるだけだ。
このように、世の中のことは結果があったら原因がある。その原因には、さらに深い原因がある。またその原因には、さらにさらに深い原因がある。どこまで行っても、きりがない。一つ知れば、一つ(もしくはそれ以上の)謎が出てくる。一つ分かれば、一つ(もしくはそれ以上の)分からないことが出てくる。
そうやって、人間の科学はどんどん複雑さを増し、専門性を増してきた。深く広く生長して、今日まで到達した。
この旅の終着点はあるのだろうか?
いつか、発散しつつある謎が、徐々に収束し、
一つの弥終に結実することはあるのだろうか?
「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。
自分の無知に気付けば気付くほど、よりいっそう学びたくなる。」
アルベルト・アインシュタイン
追記:
自分の大学生時代、理工学部に入学した当初、教員にこんな質問をしたことがある。
「いま、宇宙は、どのくらい分かっているんですか?」
教員がどう答えたかは、ハッキリとは覚えていないが、答えとして一般的な宇宙論の話をされていたと思う。そして僕は、その答えにひどくがっかりしたことを覚えている。
「いま、宇宙は、どのくらい分かっているんですか?」
この質問に、僕は下の意味を込めていたのだ。
人類は、木の棒を持って走り回っていた原始時代から始まり、現代まで様々な知識を得てきた。道具を使い、火を使い、学問が生まれ、数学・物理学が発展した。20世紀に生まれた相対性理論と量子論は、2つの間に決定的な溝はあるにしろ、世界のかなりの部分を記述し、理解する事が可能になった。
世界についての知識は、限りなく増え、世界についての理解は、限りなく深くなった。
その先。ヒトが究極の段階まで到達し、つまり世界のあらゆる事、どんな小さな事から、どんな大きな事まで、理解できるようになるときは来るだろうか?
人類が知識を持ち始めた時を始点として、人類が全ての理解を得た時を終点とする(仮に到達したとして)。現在、我々はどのくらいの位置にいるのだろうか?10%なのだろうか?20%なのだろうか?
案外近くて、80%くらいは分かっており、もう少しの後押しで宇宙の全てを理解できるのかもしれない。それとも、全く遠くて、我々は宇宙の1%も理解していないのかもしれない。
我々は、どこにいるのだろうか?
そういう意味の、途方もない質問を、僕は教員にぶつけたわけだ。
まさしく、若気の至りとしか言いようがない。というか、こんな質問で、こんな意味があるとは夢にも思わないだろう。分かるわけがない。
赤面の至り。穴があったら入りたい、とはこの事だ。
だけど、時々考える。
もうちょっと。
現代の科学+αで、宇宙の全てを理解できるのだろうか?
それとも我々は、時間も、空間も、質量も、力も、根本的な事から誤解をしていて、宇宙の事を何も理解していない、サル山のサルなのだろうか?